読書記録 6「計算不可能性を設計する」(神成淳司、宮台真司、2007年)

概要

社会学者と技術者との対談。どのように社会全体を捉え、設計していかなければならないのか。

人間は不完全な生き物。人間をコンピュータに置き換えることは合理的だがそのまま突き進んで良いのか。人間は不要になる。

人文科学では「主体が自らの在り方を選ぶ自己決定」を良しとする。「あなたへのおすすめ」を提案されることは選択の免除であり、人間は選択主体ではなく予測通りに動作する「部品」になってしまう。失敗するかもしれない、というような不安を伴う経験の先にある感動を味わうこともできない。

音楽はLPからサブスクへの変化で簡単に手に入るようになった。その分感動が減った。
アーキテクトは不条理を持ち込んでもいいから感動を創出すべきではないか。

「汎システム化」によって「生活世界」が空洞化し、「わたしたち」が誰かわからなくなり、外部性をなす「良きもの」が消える。

システム世界:コンビニ、ファミレスなど。役割&マニュアルどおりに演じられれば良しとされる領域。匿名的・没人格的・単発的。人間関係が部分的・機能的なものであって損得勘定に従って行動する。

生活世界:地元商店街的なもの。時間、空間を共有する集まり。同じものを見て同じように感じると思える。顕名的・人格的・履歴的。人間関係が全体的・包括的で、善意&自発性に従って行動する。人間の感情の働きを正当化する機能をもつ。

日本のエンジニア系の人は環境問題など子孫のことを考える人が少なく、感受性が低いように感じられる。

現在のノイマン型コンピュータは高度化しても設計どおりの処理が早いだけで、想定外には対処できない。次のパラダイムへ移行には量子コンピュータの実用化が重要。

オープンソースコミュニティと、Google、Microsoftの違い。公共性、公平性こそが素晴らしいと思う人が居る一方で、競争的に資本を集めるからこそ、大規模な経営が可能になる。Google Mapとか。

社会システムは、単に移行していくのではなく”選択”によって変化する。「選択こそが正統化装置として機能する社会」が「選択が免れる社会」へどのように”選択”されるのか。

名物教員の存在、人への感染がもつ力。内発的な力が生まれる。教育の重要性。

教育のコンピューテーションの成功例「富山インターネット市民塾」

全体を参照しつつ、感染を用いて人々の動機づけを促す。一方、名物教員的存在はシステムの計算可能性に抵触するとして除かれる。計算可能な枠内でのみ振る舞う人に感染することなんてありえるのか。感動は想定を超えることで起きること。ノイズ、感動、予想外(計算不可能な)を設計する。


感想

テクノロジーと社会学との隔たりが気になっていたのでちょうど良いテーマだった。

互いに目指すべき社会像を深く考え、それぞれの立ち位置からどのように実現したらよいかという堅実で建設的な雰囲気があった。

神成さんはいかにテクノロジーを発展させるかというような狭い視点ではなく、ちゃんと社会に何を実装すべきか考えそのために自分は教育の現場に居る、というスタンスだった。技術者は社会の要求に対して直接的に実現しやすく(具体的で分かりやすい)けど、社会学は現実を見ていないとか空論だとか言われたりする。生産力という観点ではテクノロジーが大きな効果を発揮するけど、その行為自体がそもそもどうだというような一段階上の視点がないといけない。技術者でこのように考えられる人は少ないんじゃないか。

「選択の免除」の話は自分がいつも気にしていたテーマで、今作っているWEBサイトと大きく関連している。AIをもってしてもしばらくは自分が求めるベストな製品を選んでくれるとは思えないし、その選択肢が自分に適しているということよりも、スポンサーだから選ばれたかもしれないという問題から逃れられない。そのシステムの設計者の意図に抗えない。
選択するという行為は、求める機能や特性を有しているかを見極めることであって、そこに学びがある。そのような機会も排除してしまう。そのモノへの理解が浅くなり、感動も減り、生産者側も嬉しくない。自分で選ぶからこそ責任感が生まれる。

レコードで音楽を聞くのはとても楽しい。大きなジャケットにイメージを膨らませながらレコードを取り出し、そーっと針を落とす。聞くまでの手間がいっそう感動を引き立ててくれる。

コーヒーも同じ。豆を買ったときは手で挽くところから淹れている。手挽きミルもいろいろあって楽しい。良いものはガタツキがなくなめらかに回り、弱い力で短時間で粉砕できる。優れた製品は日本メーカーにはあまり無く、中国や台湾、ヨーロッパが頑張っている印象。

先日、金沢にジャズを聞きに行った。CDも販売していて、レコードで売ってくれたらもっと嬉しいのにとふと思った。アナログである音を、アナログで保存しているレコードと、デジタルで保存しているCD。レコードは回転盤と針があれば音は再現できる。実際、アンプに繋がなくても微かだけど音を聞くことができる。
CDはレーザー読み取り機とバイナリデータをアナログに復元する装置が無いと聞くことができない。
音の良し悪しではなく距離感の違い。レコードは音がそこにあると思える。


ジャズを聞く人の多くはレコードプレーヤーもっているよね?たぶん。

でも、手間がありさえすればいいということはない。そのバランスを考えないといけない。

地元富山の事例が2つも出てきてびっくりした。「富山インターネット市民塾」に登録してみたところ、講座は全部で3つだけだった。「世界美術館探訪~海外旅行も自分流(R4)」に参加してみた。講師はかなり年配の方で、苦労しながらもzoomをちゃんと使いこなし丁寧に教えてくれた。当時はもっと栄えていたのかもしれないけど素晴らしいなと思った。

地域の相互扶助的な関係性には物理的な制限が前提な気がする。デジタル上ではクリック一つで関係性が簡単に切れてしまう。嘘も簡単につけてしまう。身近な人にはそんな身勝手なことはできない。

マルセル・モースの贈与論的な話で言えば(読んだこと無いけど…)贈与と返礼という義務感が成り立つ関係性。希薄な関係性では贈与があっても大してありがたがられず、返礼の義務感も沸かず、無料に慣れてしまい有料なコンテンツに対し「お金の亡者め」と言ったりする。だから何かの形で特に地域の人たちと関係性を築き、その中で贈与をしていくことが良いのではないかと思った。

最近、VR界隈で有名な元Facebook社のGOROmanさんが「結局リアルに行き着いた」というようなことをtwitterで言っていた。自分はGOROmanさんほど死ぬほど頑張ってきた人ではないので偉そうなことは言えないけど、人間や自然に価値を感じる人が増えると嬉しい。その上で方向性を考えながら技術を発展させていく必要がありそう。

テクノロジーによって多くの手間が減る。その手間が本当に不要なものであればいいけど、それと引き換えに何かを失っていることも多い。どの手間を省略するかしないかという選別はすごく大事。

この記事も参考になります。
テクノロジーは「安全・便利・快適」を実現するが「孤独」も生む
宮台真司氏が説く、良いテックと悪いテックを区別する必要性

https://logmi.jp/business/articles/327416

作っているWEBサイトでは、メーカーの国籍と生産国を表示しようと思った。日本の国旗が目に入れば、なんだかんだそっちに引っ張られるのではないかという考えで。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA